盆も終わり晩夏の季節となりましたが、とはいえ連日、まだまだ暑い!!
冷房で外から体を冷やすのも、冷たい飲食で中から冷やすのもいいですが、こんな時期だからこそ、ホラー映画で心の底から納涼と行きませんか?
本コラムは誰もが知るJホラーの名作を改めてご紹介すると共に、解説との相乗効果でより恐ろしく映画を鑑賞し、肝を冷やしていただこうという趣向のコラムです!
(C)2014「呪怨 終わりの始まり」製作委員会
おぞましき呪いの家!「呪怨シリーズ」の概要をご紹介!
まずは今回のテーマとなる「呪怨」シリーズの簡単なあらすじをご紹介したいと思います。
入ったら死ぬ・・・。業の連鎖を描く不条理ホラー!
(C)東映ビデオ
「呪怨」といえば、多くの方がイメージされるのは、白塗りの男の子「トシオくん」と、「あ゛あ゛あ゛あ゛」という独特の声を発する異形の女「伽倻子」の二人でしょう。
幽霊らしからぬ現実感で、殆どモンスターのように登場人物を呪い殺す二人の活躍は、単なる映画シリーズの登場人物という枠を超えて、ある種のスターになったと言っても過言ではありません。
そんな彼らが、映像世界に初めてその姿を見せたのは、意外にも「呪怨」ではないのです。
呪怨シリーズの生みの親である映画監督、清水崇監督が下積み時代に監督したショートホラードラマが彼らの初登場でした。
1998年のオムニバスホラードラマ「学校の怪談G」内にて、テレビ放映された作品二篇「片隅」、「4444444444」が呪怨シリーズのオリジンとなったのです。
「片隅」は、校舎の片隅にある飼育小屋でウサギの世話をしている女子高生に伽倻子の恐怖が襲う短編。
「4444444444」は、放課後に昇降口で鳴り響く携帯電話を拾い上げた事でトシオくんに襲われることになる短編。
二作とも、まだ演出や脚本に拙さは残るものの、現在の「呪怨」シリーズにも見られるような特徴が散見されますし、登場人物の顛末はその後のシリーズ一作目「呪怨」に直接繋がっています。
この頃はまだ”呪われた家”のエピソードは語られていませんが、呪怨シリーズならではの時間軸ずらしや、呪いのルールなどは次回作から形作られていく事となります。
原点にして最恐。「オリジナルビデオ版 呪怨(1999年)」「オリジナルビデオ版 呪怨2(1999年)」
(C)東映ビデオ
Vシネマとして発売され、口コミでその恐ろしさが業界内外に爆発的に広がったのがシリーズ一、二作目となる本作です。
当時は「リング」の大ヒットを受けて、空前のJホラーブームでしたから、ビデオ販売という形態の作品でも大きな話題をさらいました。
本作から呪怨シリーズの基本的なフォーマットが完成。各犠牲者のエピソードをオムニバス形式で語りつつ、家に纏わる呪いの根幹に少しづつ迫っていくという作りになっています。
また、本作では生前の伽倻子やトシオの物語が実録猟奇犯罪ドラマのようなタッチで淡々と描かれ、その陰惨な模様が作品全体の空気感を重苦しく恐ろしいものにしている事は間違いないでしょう。
近年のシリーズ作品と比べ、まだ伽倻子とトシオくんのスター化も進んでいなかったので、当時の観客が感じた恐ろしさはまさにトラウマ級。かくいう私も、最初に鑑賞し、激しく恐怖したのが本作でした。
時代感のある画質の粗さも相まって、何か見てはいけないものを見てしまっているような、そんな後ろ暗い怖さを感じさせる傑作です。
「呪怨」の名を世に知らしめた決定版 「劇場版 呪怨」「劇場版 呪怨2」
前述のオリジナルビデオ版二作のヒットを受けて、劇場公開用の長編映画として新たに制作されたのがこちらの二作品。前作よりも豊富な予算が与えられた事で、恐怖演出の思い切りの良さもエスカレート!悪名高い、「布団の中でも・・・」のシーンは必見です。
清水崇監督はあるインタビューで、「呪怨におけるホラー演出は一つ転べばコメディになってしまうような、ギリギリのラインを攻めている」と語っています。
これを受けて本作を紐解いてみると、なるほど先述した布団での恐怖シーンなどは、BGMや照明の当て方、役者の演技テンションなどによっては、本当にコメディ映画のワンシーンになってもおかしくなさそうな塩梅です。
例えて言うならば、志村けんのコメディ番組「バカ殿様シリーズ」のお約束の一つとなっている、「変なおじさん」のシークエンスが近いと思われます。
夜な夜な寝床に人の気配を感じて怯える女中が布団を翻すと、その中には変なおじさんが夜這いに忍び込んでいた!!なんてシーン、一度くらいは見たことがあるのではないかと思います。
バカ殿様では、コミカルな音楽とおどけた表情の志村けんが演じることによって笑いへと昇華されているものが、呪怨のように不穏さと不気味さを積み重なる事で至上の恐怖に繋がる。映像から感じる人間の印象の違いって面白いなぁと感じられますね。
意外と、今見ているものがコメディなのかホラーなのかという、前提となる先入観が映像から受ける印象を無意識に操作しているのではないか?と思ってしまいます。
コメディだと聞かされた上で、コミカルなBGMとと共に新作の呪怨を鑑賞する事があったとしたら、ひょっとすると、お腹を抱えて笑ってしまうような作品になってしまうかもしれません。
しかし、呪怨シリーズの怖さの秘密は、演出だけではないというのも、また一つの事実です。怖いシーンというだけでは、あの独特の後引く気味の悪さは出し得ません。そこで、ここから先は呪怨シリーズの恐怖の秘密を、物語にスポットライトをあてて解説して行きたいと思います。
「呪怨」はなぜあんなに怖いのか?不可視の因果と現代的不安。
さて、ここから先は呪怨シリーズの物語にググッと迫って行きたいと思います。その為の前置きとして、Jホラーブーム以前の日本のホラー映画について解説させて頂きます。
Jホラーって意外と最近のジャンル!?「リング」以前のホラー映画とは。
”Jホラー”という言葉、皆さんも一度は聞いた事があると思います。日本製のホラー映画を指す言葉として使われるようになって久しいですが、この言葉が生まれたのは遡ってみると実は最近だというのはご存知ですか?
そもそも、Jホラーという言葉を生み出し、そのブームの火付け役となったのは、「リング」です。
呪いのビデオを見た事により、七日後に貞子という悪霊に呪い殺されるという内容のホラー映画ですが、本作が公開されたのは1998年。なんとオリジナルビデオ版の呪怨が販売されるたったの一年前になるのです。
本作の大ヒットを受けて、世に言われるようになった言葉こそが、和製ホラー映画を指す言葉、Jホラーだったわけですね。
とはいえ、それ以前の日本にホラー映画がなかったかといえば、決してそんな事はありません。今となっては、日本のホラー映画といえば、貞子の強烈な印象によって、髪の長い女が出てくるものというイメージがついてしまっていますが、考えても見てください。
最も日本的なホラーと言えば、”怪談”ですよね?
古くは四谷怪談に始まり、現代的な幽霊譚や都市伝説、土着的な宗教や、妖怪など、そうした恐怖譚の類は「リング」以前にも、この日本に無数にあった筈なのです。
ですが、その中でなぜ「リング」だけが突出して多くの人々を恐怖させ、Jホラーなどというジャンルを確立させるまでに至ったのか・・・。そこにこそ、「呪怨」の怖さの本質も隠されているのです。
不可視の因果。理由なき災厄の怖さ
(C)「呪怨」製作委員会
「リング」以前のホラー映画といえば、妖怪や怪談の類が多くを占めていたのは先述した通りですが、そうした古くから伝わる怪異譚がなぜ語りつがれ、多くの人々の心の中に残り続けたのかといえば、それはひとえに、”戒め”としての機能があったからです。
他人を殺めたり、神や命を軽んじるような行いをする事で、恐ろしい体験をするというのが、古来から伝わる”祟り”や”呪い”のテンプレートで、因果応報という言葉が表すように、日本の恐怖譚の多くは、恐怖に遭遇する人物そのものに原因や理由が存在します。
しかし、現代の日本において、それらの物語で語られてきたような悪徳の行いや非道は、ゼロになったわけではないにせよ、あまり庶民的な感覚ではなくなってしまったのです。
戦もなければ、明日は我が身と言うほどの貧困もさほどなくなった時代に、そうした戒めの恐怖に現実感が持てるかと問われれば、難しいだろうと言わざるを得ません。
もちろん殺人事件や、貧困問題などは以前として存在する訳ですが、少なくとも、日常的に映画を消費できるだけの余裕がある暮らしをしている人々にとっては、もっぱら古臭い説教用のお話でしかなくなってしまった訳ですね。
そんな中、突如として現れたのが「リング」であり、「呪怨」だったのです。
「リング」の山村貞子も、「呪怨」の佐伯伽倻子も、人に殺められた事が強い恨みとなって怨霊となったキャラクターなので、そこまでは旧来の心霊譚となんら変わりはないのです。問題は、
その恨みが、呪いが、怨念の行く先が、ちっとも因果応報でなく無差別に拡散されるものだという点にあるのです。
リングでは、呪いのビデオを見たものは七日後に貞子によって呪い殺され、「呪怨」では旧佐伯邸である”あの家_”に一歩でも足を踏み入れたものは呪い殺されてしまいます。
ですが、そうした犠牲者となる人物達は、彼女らの怨念の経緯に、なんら関係がない人達なのです。
旧知の間柄でもなければ、間接的な加害者でもない。ただ、何も知らぬままに、彼女らが作りあげた理不尽な呪いのシステムに、それと知らずに触れてしまっただけ。
この無差別さ、理不尽さこそが、現代を生きる人間の心理に、強い恐怖と不安感を与えるのです。
本人がどれだけ品行方正であろうとも、善良であろうとも、その呪いの輪に組み込まれてしまったら否応無く命を奪われてしまう。
そうした防ぎようのない禍々しい何かの存在に、人々は震え上がったのですね。
少し重たい話になりますが、こうした恐怖感の在り方は、現代の都市型犯罪の形によく似ています。
被害者となる人物と加害者の間に何の因果関係も無く、ただそこに居ただけで理不尽にも通り魔殺人や無差別殺人に巻き込まれてしまう。そして、そうした事件の加害者はどこに住んでいるどんな人間でも有り得るという不可視の不安。
「リング」や「呪怨」、「着信アリ」などのJホラー黎明期の作品を紐解くと、そうした連鎖する理由なき死のモチーフが共通して居ます。その背景には、1995年の地下鉄サリン事件などの衝撃が隠されているのではないかと思うのです。
平穏に日々を過ごしている人々が、なんの理由も落ち度もなく、突然、命を奪われたあの事件によって、多くの人々の心に、
「生きているという事、それ自体を脅かすような”何か”は日常の端々に常に潜んでいるのではないか?」
という不安の種を芽吹かせたのではないかと推測出来ます。
(C)2015「呪怨 ザ・ファイナル」製作委員会
しかし、一見、理不尽で無分別に思える都市型犯罪ですが、その犠牲者となる人物はそうした犯罪が行われるに至った経緯に必ずしも無関係と言えるのでしょうか?
犯罪者の動機。その根底には大なり小なり社会の問題や風潮が関わって居ます。
貧困を苦にした強盗、社会的弱者による”自暴自棄”の末の凶行。凶悪犯罪者の特徴として挙げられやすい精神病質も、大元を辿れば人間関係や社会生活の不安定さなどが引き金となる事が殆どです。
つまり、犯罪者の在り方というのは、社会の在り方の裏移しとして常に関係しているのです。そして、我々個人は、その社会を構成する最小単位。
社会の中で肉体的、精神的、社会的に追い詰められ道を誤った人間が居るという事実は、私達個人にも決して無関係ではないのです。一人一人の関与は薄くとも、同じ社会に生きている以上、その責任の一端を担っているのです。
こう聞くと、少し抵抗感があるかも知れませんが、これは所謂、”地球温暖化”等の環境問題と同じ事。個人に出来る事は少ないし、その責任も限りなく薄いものですが、全くの無関係であるという風に割り切ってしまう事も決して出来ない。
「リング」や「呪怨」、「着信アリ」などで描かれる恐怖とは、そうした直接的な因果応報ではない、間接的かつ極小の責任の皺寄せが”運悪く”襲ってくるという恐怖なのです。
貞子や伽倻子など、生前に悲劇的な死を遂げた怨霊達の恨みは、
「同じ世界で運良く死なずに生きて居る我々」に向けて発せられた憎しみに他なりません。こう考えると、
Jホラー以前のような、「分かりやすく直接的な因果応報の怪談」が戒めとして機能した時代から、「不透明で間接的な因果の皺寄せの怪談」が現代社会への警鐘として紡がれるようになったのが現代と言えるのではないでしょうか。
(ご紹介した作品は8月時点での配信状況です。視聴する時期によっては配信が終了している場合もありますのでご了承ください。)